映画「カーズ」その神話のアルゴリズム。(試作)

映画「カーズ」を観てきた。

かつての映画の街、浅草には上演館はなく、錦糸町Olinas内のTOHOシネマズ錦糸町に、バスに乗って出かけた。錦糸町には楽天地もあり、今や、下町の映画街は錦糸町なのである。浅草にその面影はないのは寂しい限りだ。

それはさておき、感想だが、この映画は、余計な心理描写などしないアメリカン・ヒーロー物語であり、流れにテンポがあるし、マニアックなくすぐり処(おいしい処)もうまく挿入されていて、多くの方々が、かなり楽しめる映画だと思う(私はとても楽しかった)。

アメリカの象徴であった自動車を、モノとしではなく、アメリカ人そのものに擬人化して描き、広大な田舎の風景、それらのCG、そして音楽も素晴らしい。戦争帰りの軍人も居れば、ヒッピー崩れも居るし、イタリア移民まで出てくる。それらは、よい意味での――私が若い頃憧れた――アメリカへの望郷の念のように感じた。

つまりこれは、アメリカ人の、アメリカ人による、アメリカ望郷映画なのだと思う。きっと彼らは、こういうアメリカに恋焦がれているのだろう――米国のバロックの館の一階部分として――。

さて今回は、そのおいしいところには触れず、(無粋にも)神話のアルゴリズム

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y) (:はアナロジー関係)

的に、この映画の構造を見てみたい――考える技術の演習のようなものだ――。

この映画には、二つの大きなキアスムが描かれている。

それはまず、主人公のライトニング・マックイーンのものだ。

彼はルーキーイヤーに、ピストン・カップを狙える実力を持つ程の、才能の持ち主だ。ただ、我侭な自信家であり、レースに勝つことしか考えていない――世界で一番速いのはこの僕だ――、と云うような性格で、信頼できるスタッフも友人もいない。これが―Fx(a)。

そんな彼が、ふとしたことから、疲弊した田舎街、キャブレター郡、ラジエター・スプリングス(以下「RS」と記す)の住人たちと関わりあう。ここの住人たちは、かなり世間ずれしているのだが、街がまるでひとつの家族のように暮らしている。それは、レースに勝つことだけの日常とは違う日常――つまり、非日常――の感覚を、マックイーンに与える。これが―Fy(b)。そして、RSの住人たちも、マックイーンから影響を受ける。これが―Fx(b).

つまり、ここでのトリックスター(b)は、RSの住人たちであって、彼(女)たちは、時には夫々に、そして時には一体となって、マックイーンに"ひねり"を加える、それは、相互作用的に、マックイーンもまた、RSの住人たちにも"ひねり”を加えていることでもあり、そのキアスム的展開として、マックイーンは、チャンピオン決定レースに望む。

勿論、闘うのは今や彼ひとりではなく、信頼できるRSの仲間たちが一緒である。レース最終周、ほぼ勝利を手中にした彼だが、ゴール直前で立ち止まってしまう。ヒックスによってクラッシュさせられた偉大なるチャンピオン、キングを後押してゴールさせる。

そこにはもう、レースに勝つことだけに執着するマックイーンは居ない。その代わり、信頼できるスタッフであり、親友であり、恋人であるRSの住人たちと一緒の彼が居る。これが―Fa-1(y)。

そして、もうひとつの神話のアルゴリズムは、RSの住人たちのものだ――つまり(a)と(b)は、相互作用的に表裏の関係にある――。本当は一人ひとり(と云うか、一台一台だろうな)にキアスムがある――その複数のキアスムのハイブリッドが映画の"おいしい処"となる――のだが、ここでは便宜上、RSの住人たち、とひとまとめにしてはなしを進める。

RSはかつて、R66の交通の要所として栄えた街だが、今では10分時間を短縮するための高速道路――「今は楽しみを求めて走っていたが、昔は楽しみながら走っていた」という台詞が印象的だ――ができたおかげで、閑古鳥の鳴く、地図からさえ消えた、疲弊した街である。これが―Fx(a)。

そこにふとしたことから、"スーパーレーシングカー"マックイーンが現れる。彼は、あることで、道路を壊してしまうのだが、その罰として、道路の修繕を命じられ、紆余曲折はあるが、道路をピカピカに修繕してしまう。そして、RSの住人たちに仕事をオーダーし、ついでにネオン・サインまで直して、かつての繁栄の頃のように、街に明かりが蘇る。それはRSの住人たちにも、なにかかつての賑やかだった頃を思い出させる。これが―Fy(b)とFx(b)である。

つまり、ここでのトリックスター(b)は、マックイーンである。マックイーンと云うトリックスターがRSの住人に刺激を与え再び活気をもたらす――マックイーンが隠匿していた街、そしてこれからの彼のレーシング・チームの本拠地として、RSは再び活気を取り戻す。これが―Fa-1(y)。

私は、自分の仕事柄、後者の視点でこの映画をずっと観ていた。つまり疲弊した街が、あるトリックスターの出現によって、キアスム的に転回し、再び活気を取り戻す。そう、この映画は「地域再生」の映画なのである。

そしてそれは、もっと懐かしいものへの望郷でもあろう。つまり、冒頭に書いた、アメリカらしいアメリカを支えていたもの、アメリカの一階部分への望郷である。

(「アメリカの一階部分」については、「資料―法大EC2006第5回講座資料」をご参照ください)