モールスキンダイアリー

愛用中の縦に書け!実践メモ帳であるモールスキン(モグラの皮)を紛失してしまった。へのトラックバックテストを兼ねて。

Moleskine Pocket Diary Daily 2007

Moleskine Pocket Diary Daily 2007

モールスキンのポケットダイアリーを購入した。
普通のものの約2倍の厚さがあって、ポケットに入れて歩くには少々大きすぎるような気がするが、楽しんで使っていこうと思う。

2007/05/06
再びトラックバックテスト。
LAMYサファリシリーズのペンシルを使っていること。

映画「カーズ」その神話のアルゴリズム。(試作)

映画「カーズ」を観てきた。

かつての映画の街、浅草には上演館はなく、錦糸町Olinas内のTOHOシネマズ錦糸町に、バスに乗って出かけた。錦糸町には楽天地もあり、今や、下町の映画街は錦糸町なのである。浅草にその面影はないのは寂しい限りだ。

それはさておき、感想だが、この映画は、余計な心理描写などしないアメリカン・ヒーロー物語であり、流れにテンポがあるし、マニアックなくすぐり処(おいしい処)もうまく挿入されていて、多くの方々が、かなり楽しめる映画だと思う(私はとても楽しかった)。

アメリカの象徴であった自動車を、モノとしではなく、アメリカ人そのものに擬人化して描き、広大な田舎の風景、それらのCG、そして音楽も素晴らしい。戦争帰りの軍人も居れば、ヒッピー崩れも居るし、イタリア移民まで出てくる。それらは、よい意味での――私が若い頃憧れた――アメリカへの望郷の念のように感じた。

つまりこれは、アメリカ人の、アメリカ人による、アメリカ望郷映画なのだと思う。きっと彼らは、こういうアメリカに恋焦がれているのだろう――米国のバロックの館の一階部分として――。

さて今回は、そのおいしいところには触れず、(無粋にも)神話のアルゴリズム

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y) (:はアナロジー関係)

的に、この映画の構造を見てみたい――考える技術の演習のようなものだ――。

この映画には、二つの大きなキアスムが描かれている。

それはまず、主人公のライトニング・マックイーンのものだ。

彼はルーキーイヤーに、ピストン・カップを狙える実力を持つ程の、才能の持ち主だ。ただ、我侭な自信家であり、レースに勝つことしか考えていない――世界で一番速いのはこの僕だ――、と云うような性格で、信頼できるスタッフも友人もいない。これが―Fx(a)。

そんな彼が、ふとしたことから、疲弊した田舎街、キャブレター郡、ラジエター・スプリングス(以下「RS」と記す)の住人たちと関わりあう。ここの住人たちは、かなり世間ずれしているのだが、街がまるでひとつの家族のように暮らしている。それは、レースに勝つことだけの日常とは違う日常――つまり、非日常――の感覚を、マックイーンに与える。これが―Fy(b)。そして、RSの住人たちも、マックイーンから影響を受ける。これが―Fx(b).

つまり、ここでのトリックスター(b)は、RSの住人たちであって、彼(女)たちは、時には夫々に、そして時には一体となって、マックイーンに"ひねり"を加える、それは、相互作用的に、マックイーンもまた、RSの住人たちにも"ひねり”を加えていることでもあり、そのキアスム的展開として、マックイーンは、チャンピオン決定レースに望む。

勿論、闘うのは今や彼ひとりではなく、信頼できるRSの仲間たちが一緒である。レース最終周、ほぼ勝利を手中にした彼だが、ゴール直前で立ち止まってしまう。ヒックスによってクラッシュさせられた偉大なるチャンピオン、キングを後押してゴールさせる。

そこにはもう、レースに勝つことだけに執着するマックイーンは居ない。その代わり、信頼できるスタッフであり、親友であり、恋人であるRSの住人たちと一緒の彼が居る。これが―Fa-1(y)。

そして、もうひとつの神話のアルゴリズムは、RSの住人たちのものだ――つまり(a)と(b)は、相互作用的に表裏の関係にある――。本当は一人ひとり(と云うか、一台一台だろうな)にキアスムがある――その複数のキアスムのハイブリッドが映画の"おいしい処"となる――のだが、ここでは便宜上、RSの住人たち、とひとまとめにしてはなしを進める。

RSはかつて、R66の交通の要所として栄えた街だが、今では10分時間を短縮するための高速道路――「今は楽しみを求めて走っていたが、昔は楽しみながら走っていた」という台詞が印象的だ――ができたおかげで、閑古鳥の鳴く、地図からさえ消えた、疲弊した街である。これが―Fx(a)。

そこにふとしたことから、"スーパーレーシングカー"マックイーンが現れる。彼は、あることで、道路を壊してしまうのだが、その罰として、道路の修繕を命じられ、紆余曲折はあるが、道路をピカピカに修繕してしまう。そして、RSの住人たちに仕事をオーダーし、ついでにネオン・サインまで直して、かつての繁栄の頃のように、街に明かりが蘇る。それはRSの住人たちにも、なにかかつての賑やかだった頃を思い出させる。これが―Fy(b)とFx(b)である。

つまり、ここでのトリックスター(b)は、マックイーンである。マックイーンと云うトリックスターがRSの住人に刺激を与え再び活気をもたらす――マックイーンが隠匿していた街、そしてこれからの彼のレーシング・チームの本拠地として、RSは再び活気を取り戻す。これが―Fa-1(y)。

私は、自分の仕事柄、後者の視点でこの映画をずっと観ていた。つまり疲弊した街が、あるトリックスターの出現によって、キアスム的に転回し、再び活気を取り戻す。そう、この映画は「地域再生」の映画なのである。

そしてそれは、もっと懐かしいものへの望郷でもあろう。つまり、冒頭に書いた、アメリカらしいアメリカを支えていたもの、アメリカの一階部分への望郷である。

(「アメリカの一階部分」については、「資料―法大EC2006第5回講座資料」をご参照ください)

裏ウェブ進化論(2)―Google(試作)

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する  文春新書 (501)

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書 (501)

ウェブ進化論』や、Web2.0ミームと云うように、バーチャルな世界を語るとき、ダーウィニズム的な語彙(進化論的語彙)が使われている。それはたぶん、Webが、リアルな世界より、その進化(変化)のスピードが速く、変化を観察(把握)しやすい、と云うことだろう。

その急速なWeb進化は、リアルな世界にも影響を与えていることは、昨日「7月13日盛岡での講演資料」にも書いた。その理解に、私はキアスム図式を使っているが、その意味するところは、時代は――今も――確実に変化している、と云うことであり、それも、かつてなかった程に、急速に、と云うことだ。

昨日のキーワードは「10年」だった。しかし、これから先のことはを考えるには、「10年」は長すぎる単位かもしれない。この進化は、さらにスピードアップしてしまうだろう。それは、その進化を支えているものが情報技術だからだ。ムーアの法則宜しく、その進化のスピードは凄まじくはやい。

進化のアルゴリズムは、偶然性が機能しているが、それを蓋然性にしようとするのが人間の営みなら、技術を基盤にした今の時代の変化は、社会全体から偶然性を無くそうとする運動が、大きく姿を変えている時代とも見える。

その運動は、「科学」の成立から始まったわけだが、その合理の精神の対象が、自然から人間へ、そして人間の社会的活動の隅々まで広がり――例えば、心理学化、そしてマーケティング――、それが経済活動を支え、その流れが加速していることで、暫くは技術優位の時代が続くのだろう、と思う。

その良し悪しには、ここでは触れないが、その時代の牽引車が、今は、グーグル Googleである、ことは間違いないだろう。

私がこのサイトをブログ化した大きな理由は、記事の固定アドレス化であり、それは検索エンジンでのヒットしやすさを狙ってのことだ――と「裏ウェブ進化論―骰子一擲は続いている」には書いた――。その検索エンジンとは、勿論、Googleのことである。

Webの世界には、村八分ならぬ、「Googlle八分」と云う言葉がある。つまりGoogleに引っかからなかったら、Webの世界には居ないも同然だ、と云うことである――そこでは、つながりの偶然性もなくなってしまう――。

私が、ホームページ・ビルダーで作っていた旧サイトは、Googleではヒットしにくいものであることは、二三年前から感じていた。旧サイトでつくったもので、Googleの検索結果の一ページ目に表示されるのは、唯一「骰子一擲」だけである。

 → Googleでの、骰子一擲の検索結果

しかしこれは、最初から固定アドレスであったのであり、この結果もブログ化の効果であって――ブログ化した記事から何度かリンクを張っている――、それまでは、「Googlle八分」状態であったわけだ。

Googleは固定アドレスを好む。私がこのサイトをブログ化した理由のひとつ――全てではない――は、これなのである。そして昨日、よううやく「ももち ど ぶろぐ」にもPageRankが付いた(3/10)。つくり始めて一ヶ月にしては上出来だろう、と、こうして、すっかりGoogleの術中にはまってしまっているわけだ。(笑)

私は、Googleを、他の検索エンジンよりも信頼しているのは確かだ。それは、人手を介さないからだし、ちゃんとしたコンテンツを増やして行けば、私のような「ひねりと二分の一切断モデル」のようなブログしか書けないものにとっては、唯一の「つながりの偶然性」をもたらしてくれるものでしかない、と感じているからだ。そしてそれを担保しているのが情報技術なのである。

以上のことは、Web上で、「私」の存在を担保してくれる情報技術、という側面でGoogleについて書いたものだ。勿論これには「暗」の部分もあるが、今回はそれには触れない。

さて、『グーグル―Google』と云う本は、12日、盛岡行きのはやてに乗る前に、上野駅えきなかの本屋で購入し、盛岡駅に着くまでには読み終えていた。車上、三〇分以上は寝ていたので、正味一時間程で読み終えてしまう本だが、書かれてある内容は確りとしたものだ。

何よりも単なるGoogleを賞賛本に終わることなく、その「暗」の部分――つまり、社会全体から偶然性を無くそうとする運動のことだ――にもちゃんと触れている。

ウェブ進化論』が、情報技術――そしてそれが下支えする社会――に対する、ラディカルな信頼に溢れているとすれば、この本には、「暗」がある分、私的には救われてはいる。できれば両方読んでみることをおすすめしたい。今と云う時代の一端を窺い知ることができるだろう。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

フラット化する世界(上)

フラット化する世界(上)

フラット化する世界(上)

さて、トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』を読んでいた。これは上下二巻から成っていて、私は下巻から読みはじめたのだが、都合上、上巻の内容から書き始める。

世界はフラット化しているのか、と問われれば、多くの部分で、フラット化に向かっている、と私は答える。それを否定しても始まらない。フラット化は進んでいる。

それは特に、情報とそのインフラに乗った経済(お金)の面で顕著であり、文化面では、(受容力の高い国では)ハイブリッド(否定的受容)化が進んでいる――その逆のところもあって、そこでは益々固く殻を閉ざしている――。著者はフラット化の要因を次のように云う。

世界をフラット化した10の力

  1. ベルリンの壁の崩壊と、創造性の新時代
  2. インターネットの普及と、接続新時代
  3. 共同作業を可能にした新たしいソフトウェア
  4. アップローディング:コミュニティの力を利用する
  5. アウトソーシングY2Kインドの目覚め
  6. オフショアリング:中国のWTO加盟
  7. サプライチェーンウォルマートはなぜ強いのか
  8. インソーシング:UPSの新しいビジネス
  9. インフォーミング:知りたいことはグーグルに聞け
  10. ステロイド:新テクノロジーがさらに加速する

取り立ててここに目新しいものがあるわけでもなく、これは私たちの今までの環境把握の中にある、と云ってよいだろう。

そして、古い言葉で云えば、近代化(産業化)後進国の多くは、開発主義的にこのフラット化を利用し、グローバルな市場に参入してきた。それを「開発主義的」に、とわざわざ(古い)経済学の言葉を呼び出して使うのは、それが大なり小なり、政策と無関係ではないからだ。

村上泰亮による開発主義のプロトタイプを示しておこう。(『反古典の政治経済学‐下‐』:p98−99)

  1. 私有財産制に基づく市場競争を原則とする。
  2. 政府は、産業政策を実行する(つまり、新規有望産業――限界費用逓減産業――の育成にあたって、裁定者・仲裁者として価格の誘導にあたる。技術の輸入や開発の促進もそこに含まれる)。
  3. 新規有望産業の中には、輸出指向型の製造業を含めておく。
  4. 小規模企業の育成を重視する。
  5. 配分を平等化して、大衆消費中心の国内需要を育てる。
  6. 配分平等化の一助とおう意味を含めて、農地の平等型配分をはかる。
  7. 少なくとも中等教育までの教育制度を充実する。
  8. 公平で有能な、ネポティズムを超えた近代的な官僚制を作る。

ただ、「世界をフラット化した10の力」は、この開発主義プロトタイプの複雑性を縮減してしまっている。つまり今の時代の開発主義は、1と7と8だけで機能する――8はさらに高学歴化している――と云うことだ。

政府の仕事は、その障害となるもの(規制)を取り払ってやることであり、なので2の価格誘導の部分や、5や6は、もはや取り払うべき規制でしかなく、不要なものでしかない、と云うことになる。それは、リバタリアニズムのOS化のせいだとでも考えてよかろう(その意味でも、フラット化はアメリカリズムの問題でもある)。

そして、それを可能にしたのは、(オールドタイプの象徴としての)ベルリンの壁の崩壊であり、IT技術――フリードマンの言葉で云えば、インターネット、パソコンの普及、ワークフロー・ソフトウェアとインターネット・アプリケーションの登場――と、それを中心とした集束である。そして大事なことは、それは10年前にはなかったが、今はある、と云うことだ。

「公共事業と云う産業」は、村上泰亮の云う「開発主義」によって生み出された、と云うのが、私の持論である。それは特に4、5の性格が大きいのだが、それは「フラット化」の文脈ではもはや不要のものでしかない。ここに現在の「公共事業と云う産業」の疲弊の要因がある、と私は主張し続けてきた――つまり「フラット化した世界」とは、(私の言葉では)「ITが普通にある時代」である――。

しかし、村上泰亮がわざわざ「配分の平等化」を開発主義のプロトタイプに含めたのは、彼が「イエ」システムの研究者であったことでもわかるように、産業化は「技術」だけの問題ではなく、それに適した「文化」が必要だからだ。簡単に云ってしまえば、殆どの仕事が、賃金の安いところへアウトソーシング可能な今の時代に、

『人間がマニュアルに勝る理由は、変化への機敏な対応能力という点にある』(『反古典の政治経済学要綱』:p181)

と云うことであって、そのマニュアルに勝る人間は、何処から生まれてくるのか、と云うことである。

フラット化にしてみても、先行する技術とそれを使いこなす人々が居て、初めて可能となったものだ。例えば中国やインドは、フラット化の恩恵を大いに受けているが、それは単に技術がそうしたのではなく、教育水準の高さと、私が拒絶的受容と呼んでいるような、ハイブリッド可能な文化的要素の存在が大きいのだと思う。

フリードマンは、そのことに気づいてはいるようで、下巻はもっぱら米国の文化的低落状況を嘆くのだが、それは今の日本にも当てはまることだろう(それについては「下巻」で書く)。そしてそれは、スティグレールの問題提示である「象徴の貧困」ともつながる問題であり、中景の喪失の問題でもあることで、私のIT化と公共事業と云う産業の問題、つまり、フラット化と共同体性――スティグレールの言葉では、「私」と「われわれ」――の問題につながっていく。

フラット化する世界(下)

フラット化する世界(下)

フラット化する世界(下)

『フラット化する世界』を読んでいて、コンドラチェフ波動に連想が働き、しばらくほったらかしていた画像に手を加えてみた。

(↓)クリックすると大きな画像が表示されます。



たぶん、今の時代は、政策的にも何が正しいのか、手探り状態が続く Innovator's Dilemma から、コンピュータ利用とデータ交換の大衆化の局面を迎えることで、情報産業のコンドラチェフ波動は、本格的に突破段階となった、と云うことができるだろう。その具体的表出が「フラット化」だとも。

来し方を見れば、この十数年はじつに流れが速かった。(「訳者あとがき」より)

このコンドラチェフ波動の、ほんの数ミリの解釈に、まさにそれを実感する

さて、『フラット化する世界』だが、上巻がフラット化を推進する技術に対する過剰な信頼に溢れていたとすれば、下巻はその信頼に陰りが混じる。それは、フリードマンが、「文化」に言及しているためだろう。

それはまた、私の個人的(そして職業上の)問題意識――ITが普通にある時代の「私」の生き方――、と重なる部分でもあり、私的には下巻の方がより興味深く読めたのもたしかだ。

文化の問題とは、つまり人の問題である。

いまのグローバリゼーション3.0では、個人が、グローバルに栄えるか、せめて生き残れる方法を考えなければならない。そこには科学技術の技倆だけではなく、かなりの精神的柔軟性と、努力する気持ち、変化に対する心構えがなければならない。アメリカ人はこの世界でも栄えると、私は確信している。だが、過去五〇年ほどには容易でないとも思っている。われわれ個人は、生活水準の向上が止まらないようにするために、もっとせっせと働き、もっと速く走らなければならない。(下巻:p9)

フラットな世界で個人として栄えるには、自分を「無敵の民」 にする方策を見つけなければならない。そのとおり。世界がフラット化すると、階級制度はひっくり返る。たとえはよくないが、フラットな世界では、誰もが無敵の民になろうとしなければならない。私の辞書の無敵の民とは、「自分の仕事がアウトソーシング、デジタル化、オートメーション化されることがない人」を意味する。(下巻:p12)

私には、まるで何かに脅迫されているような生き方にしか思えないのだが、まあ、それは置いておいて、それでは、それはどのような人材なのか。フリードマンの挙げる新ミドルクラスの仕事の要素は次のようなものだ。

■新ミドルクラスに必要な人材

  • 偉大な共同作業者・まとめ役(マネジメント能力)
  • 偉大な合成役(マッシュアップ
  • 偉大な説明役(複雑なものを見て、わかりやすく説明する)
  • 偉大な梃入れ役(マシーンと人間のハイブリッドとしての生産性)
  • 偉大な適応者(なんでも屋
  • グリーン・ピープル(環境問題)
  • 熱心なパーソライザー(人間同士のやりとりという技倆の復活)
  • 偉大なローカライザー(中小企業とグローバルのローカル化)

ではこれに対応できる人材とは、如何なるものなのかと云えば、次のようなものだ。

■理想の才能を求めて――教育と競争の問題

  1. 学ぶ方法を学ぶ(今知っていることは思ったよりも早く時代遅れになってしまう)
  2. IQよりもCQ(好奇心指数)とPQ(熱意指数)が重要(好奇心の強い子供ほど一生懸命学ぼうと努力するものだ)
  3. 人とうまくやる(人を好きにならなければならない)
  4. 右脳の資質(ここでは、『ハイコンセプト』を引用して説明している)
  5. チューバと試験管(才能のある学生の大部分は、教室で教わることよりも、創造的な表現手段のほうに興味を示す)
  6. 理想の国

最後の「理想の国」を除く事項は、私が「考える技術」で考えているものとさほど変わらない。問題は「理想の国」である。これは、ベルナール・スティグレールが『象徴の貧困』で云う、「象徴」のことである。つまり、バロックの館の一階部分のことであり、「われわれ」であり、「中景」であり、「依って立つ地面」のことだ。

私の「考える技術」における「ひねり」とは、象徴の一部否定であり、自己言及(コミュニケーション)による自己のキアスム的な変化であるが、象徴の一部否定ができるのは、象徴があるからこそで、それは「依って立つ地面が信頼できるときだけ人は変化に耐えられる」ということでもある。米国にこれはあるのか。

フリードマンは、仕事を生み出し、フラットな世界で成功するような人々を教育するために必要なだけのものが、理論上、アメリカにはある、と云う。

  • 規制が緩和された柔軟な自由市場経済がある。
  • イノベーション発生マシン――大学、官民の研究機関、小売業者、資本市場――がある
  • 開放的な社会――なんでもできて、なんでも始められて、潰れてもやり直せる社会――がある
  • 質の高い知的財産保護制度がある
  • 柔軟な労働法がある
  • 世界最大の国内消費市場がある
  • 高度な信頼がある――山岸俊男の云う「一般的な信頼」である――

文化の規範、ビジネス手法、法体系など、こうした制度が組み合わさった効果をまとめるなら、ひとことでいい表わすことができる。信頼である。これらが高度な信頼を生み出し、ほかにも刺激をあたえている――開かれた社会が示せる最も重要な特徴こそ、この高度な信頼なのだ。いろいろな面で、信頼こそアメリカの秘密のソースの全材料といえる。(p69)

一般的信頼の高さの日米比較をすると、米国の方が高いことは山岸俊男の研究に詳しいが、これは米国の文化的な特徴である。しかしフリードマンはこう云うのだ。

…では、われわれはそれをやっているのか?(中略)…この質問の答えはノーだ。